昭和40年1月1日  特別奉修委員への御理解


 一日の御祈念が、今日、元旦早々にみんなたくさん集まってくださって、それに総代、また参りあわせた方達も一緒にこの御祈念に参加して頂いたという事を、私は何か知らん今日は自分の事のように嬉しゅう、また有難い思いでございます。
自分の事のようにと申しましたが、これは御造営成就という事、信心生活運動という事、これはただ今も御祈念前に北野の秋山さんがお届けをなさっておられますように、先生、もう私が家の中では中心にならせて頂いて、もう御造営の事に一生懸命になってそれぞれみんながおかげを頂きますのに、このようなおかげを頂きますのですから、私がもう間違いなく御造営成就の事に私が一生懸命になってさえおればよろしいとこう意味のこと。もう今年のとはもう先生、今年というのは昨日の事ですから去年の事ですれども、もう本当に私が一生懸命その事に打ち込んでおりますと、本当にお正月の準備なんかはそれこそごぼう一本洗わんですみましたとこう言うておられます。もちろん神様が自ら下さったたわけじゃないですけれども、誰を使い彼を使いしてからちゃんとできていきよるという事です。
ですからそういうような事がです、分からせてもらい体験させてもらうという事は、御造営を通してです、信心、本当の意味での信心生活ができれば、本当にこれはなるほど神の用を足せば氏子の用は神が足してやると仰るようなあり方でおかげを頂けれるという確信が持てれるという事は、御造営を通してそういう事を分からせて下さるという事だと思うんですよ。
御造営の例えば成就になりました暁にです、皆さんがその信心生活というものが身についておればです、それはもうそのまま皆さんのものなのですから。
御造営が済んでもです、その御造営の時に受けた体験とか、力は、光はみんなあなた方のものですから。いわば御造営を通してから、御造営をさかいに、私共が本当の意味での信心生活ができるようになった、私を中心にして家族中の者ができるようになったという事になってきたらどんなに素晴らしい事だろうかと。してみると、私、ただ今御祈念させて頂く時に、信心生活運動御造営、この反対に頂くんですね。そしてただ今皆さんに聞いてもらった様な事を、まあ感じたのでございます。
信心生活運動がです、なら、ただ御造営という事を通して、御造営はその事の為に、いわば稽古の対象だという事なんですよ。
信心生活運動が本当は中心であってですね、これを神様は下さろうとしておる。いうならばだから、私共の信心の造営ができればです、御造営の方もできるわけでございましょうけれどもです、御造営を通して本当の信心生活ができると。
どうぞそこんところを思わせてもらう時にです、まあちょっと意味は違いますけれども、私の事のように有難い。私の事のように嬉しい。例えば御造営というのは、神様の悲願、神様の願い。神様の願いがあそこへ成就しておるという事ですけれども、実は私の願いがあそこにああいう形で成就しておるという事になるのじゃないでしょうかね。
 どうぞ。